エッジヒルの幻の戦い
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エッジヒルの戦いは1642年10月23日に行われ、イングランド内戦の最初の戦いとなった。
1642年、政府と国王チャールズ1世との間に憲法上の意見の相違がかなりあった後、国王はついに旗を掲げ、軍隊を率いて議会軍に対抗した。
ライン公ルパートの指揮の下、王党派(騎兵)軍は国王を援護するためシュルーズベリーからロンドンに向かって進軍していたが、バンベリーとウォリックの中間地点にあるエッジヒルで、エセックス伯ロバート・デヴリュー指揮の議会派(ラウンドヘッド)軍に迎撃された。
3万人近い兵士が激戦を繰り広げ、血なまぐさい戦いとなったが、決着はつかなかった。 3時間の戦闘で両軍とも大きな損害を被った。遺体は略奪され、衣服や金が奪われ、死者や瀕死の兵士はそのまま放置された。 夕闇が迫る中、議会軍はウォリックに撤退し、ロンドンへの道を確保した。 しかし、チャールズ軍はレディングに到着したのみだった。そのため、この戦いは常に引き分けとみなされ、どちらかが勝利することはなかった。
関連項目: 第二次世界大戦のクリスマスしかし、エッジヒルの戦いはこれで終わりではなかった。
1642年のクリスマスの直前、戦場を横切る羊飼いたちによって、幽霊のような再現が初めて目撃された。 彼らは、声や馬の悲鳴、鎧のぶつかり合い、死にゆく者たちの叫び声を聞いたと報告し、夜空に戦いの幽霊のような再現を見たと語った。 彼らは地元の司祭に報告し、司祭もまた幽霊のような再現を目撃したと言われている。実際、キネトンの村人たちによるこの戦いの目撃談は、その後も後を絶たず、1643年1月には、幽霊の出没を詳述した小冊子『天国の大いなる驚異』が出版されたほどだった。
この恐ろしい幻影の知らせは国王に届き、興味をそそられたチャールズ皇太子は王室調査委員会を派遣した。 彼らも幽霊のような戦いを目撃し、参加した兵士の何人かを確認することができた。 その中には国王の旗手であったエドマンド・ヴェルニー卿も含まれていた。 戦いの最中に捕らえられたエドマンド卿は旗を手放すことを拒否していた。 旗を奪うために、彼の手は切り裂かれた。王党派はその後、エドマンド卿の手が付いたままの旗を奪還したという。
幻視を止めようと、村人たちは戦場に眠るすべての死体をキリスト教式で埋葬することにした。
幻の軍隊を目撃することは少なくなったようだが、不気味な叫び声、大砲の音、蹄の音、戦いの叫び声は、夜間、特に戦いの記念日前後に時々聞かれる。
関連項目: アバネシー1645年6月14日、ノーサンプトンシャー州ナセビーの戦いは、朝9時ごろから3時間にわたって繰り広げられ、王党派は敗走し、戦場から逃走した。 それ以来、この戦いの記念日には、ノーサンプトンシャー州の上空で幻の戦いが繰り広げられている。戦いの後100年ほどは、村人たちがこの不気味な光景を見にやってきた。
しかし、英国王立委員会の調査の結果、公文書館はエッジヒルの幽霊を公式に認定した。 英国でこの認定を受けた唯一の幽霊である。
戦場マップはこちら。
イングランド内戦におけるさらなる戦い:
エッジヒルの戦い | 1642年10月23日 |
ブラドック・ダウンの戦い | 1643年1月19日 |
ホプトン・ヒースの戦い | 1643年3月19日 |
ストラットンの戦い | 1643年5月16日 |
チャルグローブ・フィールドの戦い | 1643年6月18日 |
アドウォルトン・ムーアの戦い | 1643年6月30日 |
ランズダウンの戦い | 1643年7月5日 |
ラウンドウェイ・ダウンの戦い | 1643年7月13日 |
ウィンスビーの戦い | 1643年10月11日 |
ナントウィッチの戦い | 1644年1月25日 |
チェリトンの戦い | 1644年3月29日 |
クロプレディ橋の戦い | 1644年6月29日 |
マーストン・ムーアの戦い | 1644年7月2日 |
ナセビーの戦い | 1645年6月14日 |
ラングポートの戦い | 1645年7月10日 |
ロートン・ヒースの戦い | 1645年9月24日 |
ストウ・オン・ザ・ウォルドの戦い | 1646年3月21日 |